【なんでもコラム】喜志日記(Part 2)《みやかはどうして芸大へ?編)
こんにちは💗DANCE COMPANY みやか組 の代表、ダンサーのみやかです。
今日のブログは喜志日記のPart 2です。🔗前回の記事はコチラ
しかし、話の続きという訳ではございませんので、このPart 2からでもお楽しみいただけます🙌前回の記事が、思っていた以上に反響があり、恐縮でございます ⁄(⁄ ⁄•⁄ω⁄•⁄ ⁄)⁄テレテレ
本日は、筆者が芸大に入った理由といいますか、入学することになった成り行きをザーッと語ってみたいと思います。
筆者は、4歳からダンスをしてまして、毎日毎日厳しい練習とレッスンの日々でした。(いきなりさかのぼりすぎ😂)
小学校の4年生のときに初めて挑戦したDANCE ALIVEの関西予選で(当時はDANCE@LIVEという名前だった、ダンスバトルの全国大会です)まさかのベスト4。まさにビギナーズラック。🧐🧐
下手くその田舎娘が、何故か運(?)センス(?笑)のみでトーナメントに上がってしまい、半信半疑ながらも最終日関東予選に行ったところ
何故か何故か準優勝。
何故か何故か全国決勝Final進出。
こんな風にトントン拍子にキッズダンサー界のスター街道を歩むことになった筆者。
自分で言うなよ🥴、と思われるのは重々承知しておりますが、ダンスをしている方なら確かにその凄さ(DANCE ALIVEで決勝に行く)をお分かりだと思いますので、案外ビックマウスという訳でもありません。🫢
その後、小学5年生では全国準優勝。
6年生、中学1年生は全国大会には出れていませんが、どちらもエクストララウンドといいまして全国大会進出の最終決定戦での敗退なので、ほんと、惜しくも😞といった感じです。
中学2年生では、再びファイナリストになり、全国でベスト4になっています。
と、この⬆️話もめちゃくちゃ面白いのでまた別で記事にしたいですが、今回はこれが本筋ではありません。
何が言いたいかというと、このようにめちゃくちゃめちゃくちゃダンスやってたのに、なんと筆者は小学生のときから塾にガンガン通わされてました。
ダンス、勉強、勉強、ダンス、ダンス、勉強
すごいですよね…。
肝心の頭の良さですが、まぁ良くはないですね。というか1度中学受験失敗してますし。(算数が壊滅的に出来なかったそうな👴)
しかし、特別悪くはなかったです。
と、こんな感じで結構勉強をさせられてましたので、高校も近所の偏差値60ぐらいの高校に行くつもりで、実際中学3年生の始めには、塾の先生からも十分狙えると言われていました✍🏻。
しかし、このころ筆者の精神に限界がきていました。
中学2年生のときに交通事故でケガをしました。
集中治療室で起きた筆者は、胸に貼られた心電図の機械に驚きました。
(詳細な事故の様子が知りたい方は🔗コチラ…。)
⬆️実際の写真(画質ガビガビ😂)
幸い、命に別状は全くありませんでしたが、夏に決まっていた全国大会を2つもキャンセルしなければならなくなりました。(WDC、SPROUT、他にもアタックに新挑戦するチームが筆者のせいで頓挫した)
大会には出れないし、相方には申し訳ないし、踊れないし痛いしでかなり辛かったですね。
ある日ふと、鏡に映る自分を気持ち悪いと思い、白い手鏡を放り投げたことをよく覚えています。
全治4ヶ月。
物心がついてから初めて、やることが無くなってしまった筆者は、鉛筆でコピー用紙に絵を描き続けていました。(骨が折れたのは非利き手の鎖骨だった)
この時強く感じたこと、それは
・ダンサーは怪我をしたら一瞬で仕事が無くなるんだろうな
・ダンス以外で、第二の刃を持たなければ!
(この頃、暗殺教室というジャンプの漫画が流行っていました。そのセリフ「第二の刃を持たざる者は暗殺者を名乗る資格なし」 )
・ダンスを踊れ無い自分なんて、無価値な人間だ。他にできることもないのに…。
少々極端ですが、中学生の思考回路なんてこんなもんです。筆者は人生のほとんどをダンスに費やしていたので尚更。
そんな折れかけた心の拠り所が、絵を描くことでした。
幸いにも性に合っていたようで、短期間でメキメキ上達しました。
また、ずっと書いているだけではつまんなくなり、詩やストーリーを書き、その挿絵として絵を描く、というようなことをするようになりました。
それを、当時流行っていた素人がネットに漫画などを投稿できるサイトがあり、そこで考えた話を絵と共に投稿してみました。すると、何故かサイト内でよく見られる様になり、ファンが8000人ほどいる人気ページを作り上げてしまいました🫢🫢🫢。
…誇らしいと共に、この話はプチ黒歴史ですね(笑)(最近このサイトがサービス終了したニュースを聞いて、時の流れを感じました)
この時の経験が、デザインやストーリーを考えることに苦手意識が無くなり、脚本を書いたり、ある程度デザインを組めたりなど、後のダンス生活にも好影響を及ぼしています。
ガチ、怪我の功名。🩹
まぁつまり、奇しくもこの交通事故が
結果的に芸大への道をジリジリと整備する糸口になったワケです。
それなりに休養中も、立ち直ってからはご機嫌に過ごしていました。
ではなぜ、筆者は
「精神に限界を感じる」ことになったのでしょうか。
怪我が段々良くなり、事故から2ヶ月経った頃、少しづつ練習を始めました。筆者は割と動きが大きめのダンサーだったため、初めは“自分の強みを怪我のせいで活かせないじゃないか”なども悩みました。
クヨクヨしていてもしかたがないので、大技を封印して戦う覚悟をし、また違った練習方法を編み出しました。
その当時のブログはこちら👇
ちゃんちゃかちゃーーーーん( ・◡͐・)’◡͐’)`◡͐´)°◡͐°)^◡͐^)´◡͐`) | 都華のダンス日記
⬆️題名も内容も、真面目に書けとツッコミたくなります笑
そして、復帰戦。
上記したDANCE@LIVEという全国大会の中部予選に出場しました。
その当時のブログはこちら👇
祝!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! | 都華のダンス日記
⬆️タイトルを見るだけで結果が分かりましたね。笑
テキトーなブログですが、「踊れることだけでも幸せだったのに」という1文には、我ながらグッときます。
交通事故から完全に立ち直りました。
ではやっぱり、なぜ筆者は
「精神に限界を感じる」ことになったのでしょうか。
…この後の話は申し訳ありませんがここに詳しく書くことはできません。
なぜならあまりにも地獄が深すぎるからです。
頑張っていたことが一つ一つ打ち砕かれていく。交通事故で数々のチャンスを失ったあの夏と同じ苦しみ、いやそれより上の苦しみが中学3年生の筆者を襲いました。現在もトラウマに苛まれています。
まあ結果だけお伝えすると、筆者は大人の世界のトラブルに巻き込まれ
1年以上のダンス禁止令を宣言されました。
色んな人の期待に応えたい、ダンスしかない、ダンスだけやれ、やらなきゃ、やりたくない、やれ、やれ、やれ
やるな、やってはいけない。
春には中学3年生に。
勉強やれ、やれ、やれ。ダンスやるな、勉強はやれ、勉強勉強、、、、できない。
できないよぉ…。
そう、なーんにも出来なくなってしまいました。
筆者の心の拠り所は、絵を描くことから、メンタルクリニックで処方される薬になってしまいました。
(薬物中毒😱みたいな書き方で誤解を生みそうですが、表現として書いているだけです😂)
ある日、親に言われた
「もう頑張らなくて良いよ。」
やっと息が吸えたような気がしました。
筆者はこのダンスが禁止された日から、空っぽの1年間を過ごしました。あまりこれといった記憶がありません。
高校は、地元の高校に推薦で行くことにしました。偏差値のレベルはひとつ落とした学校にしました。
「普通の子になりたい」
そう願い続けていた子ども時代でしたが、普通とは一体なんなのでしょうか。
元々、舞台芸術科のある女子高校に以前から顔を出していまして、学校からも是非特待生にと言われていました。実際に高校入試が近くなってきた頃、その学校からの連絡が急によそよそしくなりました。
「違う表現スポーツの選手を特待生にしたいから、やっぱりみやかさんを特待には…」
大人は本当に嫌いです。みんなみんな、嫌いだーーー嫌いだーキライダー(エコー)
だから、もうそんな信用のおけない学校には行きたくないので、地元の公立高校に行くことにしました。この学校の説明会に参加したことは一度だってありません。ここで、いいのか。いや、これが運命だな。
そう思っていた所、中学の先生に「単願はやはり怖いから、一応滑り止めで私立を探しなさい」
こう言われました。
別に特に行きたいところなんてないしなぁ。まあ頑張ったところで、って感じだよね。そう思いながらも、ふと目に入ったパンフレット。
まぁ、ダメ元で行ってみるか。失うものないし(自暴自棄)。
これが、金蘭会高等学校との出会いでした。
金蘭会は、当時改装されたばかりの美しい校舎でして、
8階建て?!学校に、エレ、エレベーター?!図書室、広い!!カ、カフェテリアですって?!ウィステリアホールってなんぞや??!
と、都会の美しき学校にメロメロ😍。地元の公立高校によく考えもせず成り行きで行こうとしていた田舎者の我々にとって、金蘭会があまりに輝いて見えました。
また、女子校ということも両親の決断を深める重要な理由になりました。(一人っ子で過保護なのでね)
これについて筆者は初めは不満でしたが、ある日ふと「今って公立の中学校だよな?ほらクラスに男がいる…でも、好きな人も彼氏も居ないし、これ女子校でも変わんなくね??」と悟ったのを覚えています(*^^)v笑
公立高校への推薦枠を、既に学校から貰っていたあとだったので、とても悩みましたが。たくさん謝って、行きたい道に進むことを許してもらいました。
2015年4月、筆者は可憐なセーラー服とブラウンの小洒落たバッグを片手に、花の高校デビュー🌸を達成しました。
1年ダンスを辞めてたことで体重が6キロぐらい増えてましたので、むしろ団子の高校デビュー🍡と言うべきかもしれません。
とにかく、都会のエレベーターあり学校(ここ大事)で JK というやつになることが出来ましたとさ。キラキラー
この京都銀行のCMのように長ーーーーーーいブログも、もう少しでケリがつきますので、もうしばしおつき合いお願いいたします。🙇♂️
高校では、スポーツ特技クラスに入学しました。ダンスを特技として入学することが許され、例えば大会の日は公欠になったりなどそのような利点がありました。
同じクラスには、バレーボールのオリンピック強化選手や、新体操、アーティスティックスイミングのトップ選手がゴロゴロいました。
毎日訓練を積む彼女たちに、刺激も受けました。
高一になりダンスに復帰した筆者は、1年間ろくに踊っていなかった(続けてたのはバレエのみ)にも関わらず、JAPAN DANCE DELIGHTというダンスコンテストの全国大会にて最年少でファイナリストになるなど、もはや根性でダンス界に名前をギリギリ残し続けました。
学校では、「美術」の授業が選択でありました。
あの忌まわしい交通事故。
しかし筆者は事故のおかげでそこそこの画力🖼🖌を手に入れてました✨️。
美術の授業でカキカキしていると、顧問の先生に褒められました。
「美術部入ったら〜?」
筆者はその言葉に満更でもなく、入ろっかな〜入っちゃおうかなぁ〜と自慢げに言いふらしてたところ…
ある日担任が
「黒田さん、この前美術部入りたい言ってたから書類書いて出しといたよ」
…
えーーーーーー????
いや、ダンス忙しいしホンマに入る気はなかったゾぅ?!🐘
いや、ま、まぁ?わざわざ断るとかはないし、は、入るか…
入ろうかしら…
高校2年生からでも部活って入れるのかしら…
これが、芸大に入学するキッカケになった恩師、美術部の顧問である長谷川さゆり先生との出会いです。(担任gj👍)
⬆️当時の絵。なんだか恥ずかしいです🤣
美術部に入ってすぐ、絵を描いたりしていましたが、ある時から粘土にハマってロリータ調の人形をペタペタ作っていました。放課後にペタペタしていると、筆者のちょうど背面にあるポスターを、さゆり先生が指さします。
「今度、大阪芸大で高校生アートのコンペティションがあるよ。美術部の他のみんなが作品を出すよ。みやかさんも絵を描いて出したら?」
む。大阪芸術大学の名前は知っていました。さゆり先生の母校だということも聞いていました。絵のコンペかぁ。ふぅん。
ちょっとまって✋
このコンペ、優勝賞金50万円って書いてる…‼️
出す!筆者、出すからね!🥹🥹✨️(単純)
ちょっとまって✋
応募締切までもう1ヶ月切ってるじゃん‼️
この人形を出すならまだしも、絵を書いて出す…?スケジュール難しいよな。
諦めるか。
ちょっとまって✋
【舞台】って書いている項目がある。
つまり、ダンスでも出せるってこと…??
日がない中だったので、もう少し凝りたいなぁと思いながらも出さないよりマシか!と勢いで応募することにしました。
絵ではなく、ダンススタジオで3分の音楽を即興で踊り、それを一発録りしてコンペに応募しました。
ある日、大阪芸大から電話がかかってきました。
“詳細は話せないが、何やら大きめの賞を受賞した。”
“授賞式は、是非家族で参加してくれ”
思いもよらない吉報でした。
期待なんて全くもっていなかった筆者の一発録りダンス動画が、なんと1943作品中、第5位である審査員長賞を受賞したのです。
その授賞式で、様々な芸術分野のプロの先生方と実際にお話しする機会がありました。
夢がみるみる膨らみました。
ダンスしかやってこなかった自分。ダンスに色んな世界を見せてもらった自分。ダンスに苦しめられた自分。
ここで学ぶことで、苦しんだ自身の過去を!ダンスに絶望した青年時代の記憶を!やっと救えるのかもしれないと希望を感じました。
筆者は大阪芸大を受験することを決めたのです。
(審査員長賞の副賞で入学金免除もあったしね😂)
翌年にもそのコンペで優秀賞を授賞し、AO入試(現在は廃止)でも、成績優秀者として選ばれ、入学金免除を3つも持った状態で大阪芸大に入学が決まりました😎。
(3つ入学金があるからと言って、半期免除とかには特にならなかった笑)
…と、まぁ筆者が芸大に入学することになった経緯はこんなものであります。
芸大ではたくさんの、かけがえのない経験を積むことができ、今こうしてダンサーとして何とか生きていけています。
苦しいこともありましたが、今は遠い昔の事のように感じています。もちろん、苦しんだ日々で失ったもの、奪われたものもありますが、得たものがそれ以上にあります。
日々、自身で道を選択しています。人のせい、環境のせいにしているままでは、筆者は今のようになれなかっただろうから、どうにか踏ん張った青年時代の自分を抱きしめてあげたい気分です❣️
ただ、筆者は自分の生徒たちにこんなに苦しい思いをして欲しくはないです。頑張って得たものが奪われるどうしようもない悲しみは、耐え難いものだったからです。
筆者は大学院で、【踊らなくても人を踊らせられる】体育科教員向けのワークショップメソッドを、研究していました。
これは何故か。
忌まわしい事故のとき強く感じたことが、影響しています。
かつての筆者のように、生徒達が怪我をするたびに
「ダンサーは怪我をしたら一瞬で仕事が無くなるんだろうな」
「ダンスの踊れない自分なんて、無価値な人間だ」
こんな風に思うなんて辛すぎます😿😿。
だから、筆者が体現するのが生徒たちの少しの希望になればなぁと考えています。未来だけを信じて、思う存分ダンスを学んで欲しいのです。ダンスを信用して欲しいのです。
しかし、目標達成や成功への道には、ある程度苦労が付き物のように思えます。苦労というより、飛び込む覚悟かな。
筆者は生徒に厳しい言葉をかけることもかなりありますが、中途半端な心、弱さ、足りなさを理解しているのに見て見ぬふりするのは、結果的に大きな虚しさを引き起こすと知っているからです。
筆者は、頑張る生徒たちの一番の味方であり続けたいと心から思っています。嫌いになんてならないよ。最後の最後まで。
じゃあね!!
最後までご覧いただきありがとうございます💃
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